「開運ライフ」とは・・・

日本人は昔から、その季節や一年の出来事のそのたびに、運命を開くおまじないをしていました。
それが年中行事やお節句となって今日に伝わり、今でも様々な形で幸運を引き寄せる、縁起担ぎのおまじないとして伝わっているのです。
このマーク・矢崎の開運ライフは、そんな今日に伝わる様々な、幸運を引き寄せるおまじないを紹介しながら、みなさまの未来や人生を幸運へと導く、開運ライプを提案するものです。
さあマークと一緒におまじないを生活の中に取り入れて、幸せな開運ライフを始めましょう。


~七夕祭り編~

① 七夕の起源

♪笹の葉サ~ラサラ 軒端に揺れる お星さまきらきら きんぎん砂子~

この季節になると子供たちが夜空を見上げ、梅雨空の雲の隙間から見える星に向かってこんな歌を歌ったのは、もう昭和の思い出‥‥なのでしょうか。
でも七月七日は七夕(たなばた)のお祭り…ということは皆さん良く知っていますよね。それではこの七夕のお祭りは本来どんな意味を込めたお祭りなのか…は、きっと誰も知らないと思いますので、その七夕祭りの秘密を探ってみることにしましょう。

さて、7月7日の七夕は、本来は七夕(しちせき)の節句と言って、3月3日、5月5日と同じお節句で、陰の数字が並ぶ縁起の悪い日とされて、その禍を祓うための禊の行事が行われた日でした。

また旧暦の7月15日はお盆でこの日、夜空に浮かんだ満月を地獄の蓋が開くと見立てた昔の人は、その1週間前の七夕の日の半月を、地獄の蓋が開き始めたお盆の最初の日として、あの世から戻ってくるご先祖様を迎える準備を始める日とされていました。

とくに稲作文化が根付いた頃の日本では、太陽の力が強まる夏至を過ぎたこの時期は、地上に陽のパワーが満ち溢れ、その生命力によって稲穂が実を結ぶと考えられていて、その生命力によってご先祖様が蘇り、豊作の実りを持って帰って来ると信じられていました。

そのため今でも稲作農家の古い家では、七夕の日に庭に日本の笹竹を立てて、その間に稲藁を拠った縄を張り、そこに真菰や茅萱で作った雌雄の馬を向かい合わせに吊るし、季節の野菜や蓮の葉などを供えた精霊棚を作って、ご先祖様を迎える風習が残っています。

笹竹も、真菰も茅も暑いこの時期、青々と茂る生命力を表す植物なので、その生命力にあやかり、ご先祖様の復活や稲の実りを願っているのでしょう。またこの時期は神社で暑い夏を乗り切る夏越の払いが行われますが、そのとき行う茅の輪くぐりも、茅の生命力にあやかり、体力の回復を願ったものだと思われます。

つまり七夕の本来は、上巳や端午のお節句と同じで、季節の変わり目の陰が重なる忌み日に禊で病魔や災厄を祓って、健康や不老長寿を願う古来の行事と、夏至の陽の気あやかり、ご先祖様の復活と、稲の実りや豊作を願う行事が重なり生まれたものなのかもしれません。


② 七夕と織姫伝説

さて中国ではこの七夕の日には、乞巧奠(きっこうでん)という儀式が行われていました。乞巧奠とは中国の織姫伝説に由来した、女子の機織りや裁縫、技芸上達を星に願う行事のことです。

そしてその伝説と言うのは‥‥昔、天の神様の天帝に織女というとても真面目な機織り名人の娘がいました。天帝はその真面目さのご褒美に、これまた真面目な牛飼いの、牽牛という婿を娶らせました。

しかし織女と牽牛は夫婦になったとたん、その楽しい結婚生活にうかれて仕事を忘れ、そのまま何年も遊び呆けてしまいました。それを怒った天帝は、2人を天の川の両岸に引き離してしまいましたが、それから娘の織女は意気消沈し、みるみる痩せ細ってしまいました。

それを見かねた父の天帝は娘に、真面目に仕事を続けるなら、1年に一度この七夕の日に、天の川を渡って牽牛と逢っても良いという条件を出しました。
それから織女は真面目に機織りに精を出すようになり、1年に一度七夕の日には、天の川を渡って牽牛の元へ会いに行くといいます。

中国ではその悲恋の話を若い娘への戒めとして伝え、この七夕の日に夜空で逢瀬を重ねる織姫と牽牛に供え物をして祈ることで、若い娘の機織りや裁縫がうまくなり、技芸や習い事が上達するとされ、星空の見える庭に4本の笹竹を立てて祭壇を作りました。これが乞巧奠と呼ばれる儀式で、七夕の織姫と彦星の伝説はここからきているのです。


③ 七夕と星祭り

奈良時代になると大陸との文化交流の中で、我が国にもこの乞巧奠の儀式が伝わり、やがて宮中行事の中にその星祭りが取り入れられました。そして平安時代には宮中五節句の一つとして儀式化されで、屏風や絵巻物にその様子も描かれています。

その絵巻物によると七夕のこの日、宮中では清涼殿の庭に四本の笹竹を立てしめ縄を張って結界を作り、その中に四つの朱塗りの机を置いて、季節の山海の供え物と一緒に、五色の糸や反物、書の道具や楽器など、技芸上達を願う品々をお供えしました。

また宮中で機織りや裁縫を司る女官たちは、針に五色の糸を通して赤芽柏の葉にそれを刺し、針供養をして機織りや裁縫の上達を願い、和歌や書物を司る人たちは、梶の葉に歌を書いてそれを供えて、和歌や文筆の上達を願ったといいます。

そしてこの日天皇は、一晩中祭壇に香を焚き灯明を燈して、水を張ったタライに移した夜空の天の川を見つめて、織姫星と彦星の楽しい逢瀬を祈ったのだといわれています。

織姫星はこと座のベガ、彦星はわし座のアルタイル。この二つの星は天の川を挟んでちょうど向かい合わせに輝いているが、誰もが子供の頃に思い描いたように、この2つの星が七夕の日に急接近をして寄り添うことはありません。

ではなぜこの日に天の川を渡って逢瀬という話が生まれたかというと、旧暦では7月7日は上弦の半月の日で、これを昔の人は2人の仲を取り持つ天の川を渡る船と見立てていたのでしょう。

伝説の中には鵲(カササギ)という鳥が天の川に橋を架けるという話もありますが、鵲の羽を広げたその先端の白い部分は、ちょうど半月の形に見えるので、これもこの七夕の晩に天の川に輝く半月を鵲の翼に見立てたのではないでしょうか。

新暦になった今では七夕の夜は必ずしも半月ではありませんが、夜空に輝く月と天の川を見上げて、織姫星と彦星の楽しい逢瀬をみんなで祈ってみませんか。

次回へ続きます‥‥


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20歳で月刊少女誌『マイ バースデイ』(実業之日本社)におまじないや占いなどの連載を開始。『いにしえからの贈り物 お守り・厄除け・おまじない』(説話社)をはじめ著作多数。『毎日新聞』の占い欄ほか、ウェブサイト、携帯サイトの監修も多数。明治時代の実業家・易断家の高島嘉右衛門(たかしまかえもん)の玄孫(やしゃご)にあたる。日本占術協会専務理事、日本占術協会認定占術士。
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