「開運ライフ」とは・・・

日本人は昔から、その季節や一年の出来事のそのたびに、運命を開くおまじないをしていました。
それが年中行事やお節句となって今日に伝わり、今でも様々な形で幸運を引き寄せる、縁起担ぎのおまじないとして伝わっているのです。
このマーク・矢崎の開運ライフは、そんな今日に伝わる様々な、幸運を引き寄せるおまじないを紹介しながら、みなさまの未来や人生を幸運へと導く、開運ライプを提案するものです。
さあマークと一緒におまじないを生活の中に取り入れて、幸せな開運ライフを始めましょう。


~端午の節句の起源~



節句とは中国が起源の年中行事のことで、中国の陰陽五行説に基づいて、月日や干支の組み合わせから選ばれた暦の節目に当たる行事のこと。日本では一月七日の人日(じんじつ)の節句、三月三日の上巳(じょうし)の節句、五月五日の端午(たんご)の節句。七月七日の七夕(しちせき)の節句、九月九日の重陽(ちょうよう)の節句が、江戸時代に五節句として幕府から正式な年中行事に定められました。

端午の節句は中国では旧暦の五月を干支の午の月とされ、その最初の午の日(端午の日)を午が重なる特別な日として、これから夏の暑さと雨季の湿気とて病魔が蔓延するその予防策として、野山に出でて山菜や薬草を摘み、それを料理や漢方薬として体内に取り入れようとしたのです。

冬が終わって春になると季節の変わり目で体調を崩すことがあります。これは五行説では冬に溜まった水の氣が新しい季節の氣と合わずに悪さをすると考えます。そこで水の氣を中和させるため、火の氣を持つ山菜や薬草などの苦味を身体に取り入れるのです。また午は五行では火に当たるため、午の月日が重なる端午の日は薬草の働きが強まるとされて、この日に野山に出でて薬草を摘む、薬狩りという行事も行われました。そして夏の氣である火の氣を身体に取り込んで、これから来る雨季の湿度と夏の暑さに備えようとしたのが端午の節句の始まりです。

その端午の節句が午の日から五月五日に変わったのは、中国の戦国時代の楚(そ)という国に屈原(くつげん)という優れた政治家がいて、王や国民に尊敬されていましたが、政敵の陰謀で失脚し、無実を訴えて入水自殺をしました。その日が五月五日で屈原忌とされて、人々は川底に沈んだ屈原の遺体を魚が食べないように、船を漕ぎ出して川に粽(ちまき)を投げ入れました。その屈原忌が後に中国全土に広まって、同じ火の氣を持つ数字の五が重なる五月五日を端午節として、その屈原忌のペーロン舟や粽の行事が端午節の風習に取り入れられたのです。

この端午の節句は陰陽五行や暦の節目の考え方とともに中国から朝鮮半島に伝わり、我が国には大和時代に百済から派遣された五経博士(ごきょうはかせ)によって、儒教の思想とともに伝えられたのです。


~奈良時代の宮中行事~


大和時代に百済から伝わった端午の節句の風習は、儒教思想や陰陽五行説などと共に我が国に根付いていきました。そして上巳や七夕の節句とともに、朝廷文化の中に溶け込んで、奈良や平安の時代には宮中行事としてその記録を残しているのです。

奈良時代にはこの端午の節句の前に、薬狩りとして役人が野や山に出でて薬草や山菜などを摘んできました。またこの時期は春に生え変わった鹿の袋角を漢方薬の鹿茸(ろくじょう)にするため、野生の鹿を狩ることもされたのです。
そして集められた薬草や鹿茸は乾燥されて細かく刻まれ、小さな錦の袋に詰められて、魔除けの働きがあると信じられた菖蒲(しょうぶ)や蓬(よもぎ)の葉で飾られた、薬玉にされて朝廷の役人や家臣たちに配られたのです。

この薬玉は匂い袋や、病気のお見舞いや縁起物の久寿玉(くすだま)として現在に残っていますが、その始まりは春の薬草を常備薬とした、救急箱の起源だったのです。

またこの旧暦の五月五日は初夏の田植えのシーズンでもあります。五経博士によって伝わった陰陽五行の考えでは、田植えや種まきは、子供を産み育てて子孫繁栄をもたらす力のある女性の仕事とされていました。そしてこの時期は田植えをする女性たちを五月女(さおとめ)と呼んで大切にしていたのです。

田植えの儀式をする五月女たちは川での禊を済ませたあと、田んぼのそばに建てられた魔除けの菖蒲や蓬を飾った小屋に、山から神様を招いてご馳走をふるまったり、楽しい踊りを見せたりして、神様をおもてなししたのです。

もちろん神様を接待する五月女たちもいつしか神様の化身となって、お酒を飲んだりご馳走を食べたりして楽しみました。

魔除けを飾った小屋で穢れを浄化し神様の化身となった五月女たちは、水を引いた田んぼに出て苗を植えました。神の化身の五月女たちが植えた田は神様に見守られてすくすく育ち、秋には豊作になると信じられたのです。

これが今日のお田植え神事の始まりとなり、その時の料理が田楽料理として今に伝わり、そのときの踊りや芸能も、田楽芝居として伝わっているのです。

つまり端午の節句は初めは男の子のお節句ではなく、むしろ女の子や女性のためのお節句だったのです。



~女性のお節句から男の子の節句へ~

端午の節句が女性の節句から男の子の節句へと変わったのは、武士の勢力が台頭した鎌倉時代からだと言われています。

元々端午の節句は病魔を祓う、厄除けの行事であったことから、武士がその武力によって、国を害する敵や悪魔を退治するという、武士の存在意義や価値観を象徴するものと捉えられたのでしょう。

そのため魔除けの菖蒲はその葉の形から、武士の持つ刀に見立てられ、その鋭い葉の切っ先で邪気を退け、また菖蒲の名は尚武(しょうぶ)になぞられ、武術を尊ぶ武士の精神とされたのです。

武士がその覇権を争う戦国時代になると、端午の節句は増々武士の節句、男の子の節句の色を深めて、男の子たちは河原で石を投げる印地打ち(いんじうち)や、菖蒲の葉の剣で空を切る菖蒲切り(しょうぶきり)などの、邪気を払う儀式遊びをするようになりました。しかしそのうちに敵味方に分かれて合戦遊びをするようになり、投石によって死者やケガ人が続出したため、時の幕府によって何度か禁止されました。

時代が下って世の中か安定すると、菖蒲は更に勝負(しょうぶ)になぞられて、博打やゲームの勝敗を競うようにもなりました。例えば勝負の葉で地面を叩いてその土地の邪気を祓う菖蒲打ち(しょうぶうち)の儀式は、菖蒲の葉を編んで鞭を作って地面を叩き、その音の大きさで勝敗を競う遊びとなりました。

そしてメンコやコマで勝ち負けを競って、相手のコマやメンコを取り合う遊びも、男の子が端午の節句に遊ぶ、節句遊びとなったのです。

また武士の社会が安定した江戸時代には、端午の節句は幕府によって、男子の成長や出世を願う年中行事として五節句の中に入れられました。

幼い子供のいる武家では家紋を染めた幟印し(はたじるし)を門口に立てたり、床の間に邪気や厄病を祓うとされる中国の軍神の鍾馗(しょうき)や虎の絵の屏風を立てて、鎧兜や武者人形を飾るなど、その家の跡継ぎの出世や成長を願ったのです。


~端午の節句の風習~

五月五日の子供の日には、お風呂に菖蒲の葉を浮かべた菖蒲湯に入るご家庭も多いと思いますが、菖蒲湯のような端午の節句の風習はどこから生まれたのでしょうか。

もともと端午の節句は古代中国の薬狩りの風習から派生したもので、菖蒲湯の菖蒲は蓬とともに、この日狩られる薬草の中心的な存在でした。

中国では旧暦の五月を悪月(あくづき)と呼んで、これから始まる雨季の湿度と夏の暑さによって蔓延する病魔や災厄を薬草によって防ごうとしました。そしてこの時期の野や山に勢いよく萌え盛る菖蒲と蓬は、夏の氣を宿す生命力の満ち溢れた薬草として珍重され、菖蒲や蓬の醸し出す青臭い若葉の香りが人々に生命力を与え、病魔や災厄を退けると信じられたのです。そのため端午の節句では菖蒲湯に限らず菖蒲と蓬は色々な形で魔除けの風習に使われたのでした。

中でも菖蒲湯はお節句の禊の風習と同化して生まれたものですが、当時の入浴は湯堂や湯殿と呼ばれた浴室で湯を沸かし、その蒸気を部屋に満たした蒸し風呂形式で、当時の菖蒲湯は菖蒲や蓬をその湯で蒸して、その香りを部屋に満たしたものでした。


この入浴法は仏教とともに日本に伝わったもので、江戸時代まで入浴の主流でした。その後庶民の間では、桶やタライに湯や水を張って浴びた行水が広まり、それが湯船に張った湯に入る入浴の始まりとされています。今のようにお湯を張った湯船に菖蒲や蓬を浮かべて入る菖蒲湯は、お湯が自由に使えるようになった、わりと近年に生まれた風習なのでしょう。

菖蒲湯だけでなく菖蒲や蓬は魔除けとして、さまざまなところに使われました。たとえばお田植え神事の五月女たちは、禊の後の髪に菖蒲の葉を刺したり結んだりして菖蒲髪(しょうぶがみ)という魔除けをしました。神様をもてなす小屋の屋根には、菖蒲や蓬を飾って菖蒲葺(しょうぶふき)という魔除けにしました。また玄関や門口には菖蒲飾(しょうぶかざり)という菖蒲と蓬の束を下げて、魔が入り込むことを防いだのです。

武士の台頭する鎌倉時代や武士の治める世になると、端午の節句に武士の文化や風習が加わります。前に説明をした合戦を模した印地打ちの石合戦や菖蒲の葉を刀に見立てたチャンバラごっこの菖蒲切りがこれに当たります。

そして江戸時代に入り、武士の世の中が安定すると、今度は武士の家を継ぐ世継ぎの男児が無事に育って立身出世をするようにと、元服(げんぷく)の儀式を真似た鎧兜や武者人形を飾るようになり、家の門口には出陣を模した、家紋や名前を書いた武者幟(むしゃのぼり)や、戦場の陣屋で風向きを知る吹き流しを立てて、世継ぎが天下を取るようにと願いを込めたのです。


後にこの出陣を模した武者幟や吹き流しは、竿先に天道(てんどう)や太陽を表す丸い籠玉(かごだま)と、その下に武運を祈る矢羽根飾りの矢車(やぐるま)と、陰陽五行を表す五色の尾の吹き流し、鯉は滝を昇って龍となるという中国故事の登竜門に因んだ出世を願う真鯉と緋鯉の吹き流しを付けた、鯉のぼりを立てるようになったのです。

この鯉のぼりはそのままの形で伝わり、子供を表す青鯉を加えて一家繁栄の意味も込め、今日の皐月の空を泳いでいるのです。


~端午の節句の行事食~


端午の節句の食べ物と言えば、せいくらべという童謡にも歌われた、粽が思い浮かびます。粽と言えば日本では甘いお菓子と思い浮かべがちですが、古代中国で食べられた本来の粽は、もっと違った味のようでした。

粽の作り方はといだもち米を灰汁(あく)という、木の枝を燃やした灰を水に入れたその上澄み液に一晩漬けたあと、もち米を竹の皮や笹の葉で包み、その灰汁で炊いた食べ物で、灰汁のアルカリ性の働きで殺菌効果がある保存食ですが、その分灰汁の苦みの強い食べ物でした。

端午の節句は冬に溜まった老廃物や冬の水の氣を、この時期の野や山に生い茂る薬草や山菜の苦みによって夏の火の氣を体内に取り入れ、中和させようとしたのが起りで、また夏の氣を身体に取り入れることで、やがて来る夏の暑さや雨季の湿度に耐えられる身体を作ろうとした、中国の陰陽五行説に則った風習です。なのでこの時期に苦い灰汁で作った粽を食べるのも、苦みによって夏の火の氣を体内に取り入れようとしたものなのでしょう。

前回屈原の故事で人々が屈原の遺体を魚に食べられないように粽を川に投げ入れた話をしましたが、この時期は保存食である粽が身近にあったのと、水に沈んだ屈原を、粽の火の氣で復活させようとした、人々の屈原への熱い思いがあったのではないでしょうか。

粽は大和時代から奈良時代にかけて中国の王朝文化と共に日本へ伝えられたと言いますが、当時の宮廷貴族はこの苦い粽をそのまま食べることができず、甘づらという蔦から取った甘い蜜のようなものをかけて食べていたようです。その甘い粽がやがて砂糖を混ぜた甘い餅や、あんこを包んだ餅を竹の皮や笹の葉で巻いた、今の甘い粽や笹団子へと発展したのです。

また蓬の新芽を餅に混ぜてついた草餅も、端午の節句の行事食として食べられました。蓬の葉も爽やかな新緑の香りとほろ苦い味を持っているので、これを入れてついた草餅も夏の火の氣を宿す食べ物と考えられたようです。初めはこの草餅はそのまま苦い薬の餅として食べられていましたが、やがて甘い餡を包んだり竹の皮や笹の葉で巻いて、粽や笹団子と一体化していきました。

さらに時代が下ると竹の皮や笹の葉に変わって餅を柏の葉で包んだ柏餅が登場しました。柏の葉は譲り葉と言って、新しい新芽が出るまで古い葉を落とさない植物で、それが代々家を受け継ぐ子孫繁栄の象徴として武家の社会で喜ばれました。そのため江戸時代以降の武家の家では、端午の節句に粽とともにこの柏餅が食べられるようになったのです。

菖蒲はその青々とした香りが邪気を祓うとされて、端午の節句では魔除けの飾り物とされていますが、その香りの成分が漢方では血行を良くして疲労回復を促すとされています。

またその菖蒲の根は、漢方では菖蒲根(しょうぶこん)。西洋でもアイリスルートとして健胃生薬や腹痛を治める鎮痛や鎮静薬として使われました。

端午の節句ではこの菖蒲の根や、菖蒲の葉の付け根の白い部分をお酒に漬けて香りを移し、その菖蒲酒(しょうぶしゅ)を飲むことで、体内の邪気が祓われて、これから訪れる夏の暑さと雨季の湿気に負けない、健康な体になれるとされています。

他にもこの端午の節句では、粽に使った竹の皮を剥いだ残りの筍でたけのこご飯を作ったり、野や山で薬草と共に取って来た、ワラビやゼンマイなどの山菜を料理して、行事食として楽しみました。

どうぞ皆さんもこの端午の節句に、新しく芽吹いた野山の自然の生命力を、美味しくいただいてみてはいかがでしょうか。


~端午の節句から子供の日へ~

江戸時代に幕府によって年中行事として定められた5月5日の端午の節句は、戦後まもなくの昭和23年7月20日に国民の祝日に関する法律によって「こどもの日」として制定されました。その条文によるとこどもの日とは、こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する日とされています。

つまり江戸時代に幕府によって男の子の成長と出世を願う年中行事とされた端午の節句は、戦後の男女平等の精神が反映された新憲法とそれに基づく法律によって、男の子も女の子も平等に、その成長と幸福を願う日とされ、更にはその子供をこの世に生んでくれた、偉大なる母親への感謝を表す日とされたのです。


思えば端午の節句は病魔や災厄から命を守る薬狩りから端を発して、命を生み出す女性の能力を重んじる、五月女のお田植神事へと進化した言わば命のお祭りです。それがいつしか命を危うくする戦(いくさ)への出陣の祭りへと変貌を遂げた後、悲惨な世界大戦を経て、子供の未来や幸福を願い、更にはその子供の命を生み出した偉大なる母への感謝を捧げるこどもの日となったのも、何かの運命(さだめ)のように思えてなりません。

令和の時代のこの世の中は、新型コロナウイルスが世界中に蔓延して、幼い子供たちを含む多くのかけがえのない命を危うくしています。5月5日のこどもの日の、命を育み護るこの端午のお節句に、未来を託す子供たちのために、今私たちができることは何なのかを、もう一度考えてみてはいかがでしょうか。


~端午の節句のおまじない~

五月女が神様をおもてなしする小屋に、菖蒲と蓬を束ねた菖蒲飾りを吊り下げて、魔除けのお守りにするという話しをしましたが、この風習は京都や奈良の古い伝統の残る家並みで今でも残る風習です。

スーパーなどで菖蒲湯用に売られているこの菖蒲と蓬の束を、玄関の内側の戸の脇にフックのようなものを付け、そこに逆さに吊るしておきましょう。
玄関の中なので外からは見えませんが、それでもしっかり魔物や禍からあなたの家を守ってくれるはずです。

そして植物を逆さに吊るしておくと、ちょうど稲束を逆さに干して乾燥させる原理で、菖蒲と蓬が陰干しになってドライフラワーのようになるはずです。
その菖蒲と蓬を吊るしたフックに、幸運グッズのシャブリリのペンダントを下げておくと、菖蒲と蓬のパワーがペンダントに宿って、シャブリリとの相乗効果で魔除けのパワーがさらに強力になるはずです。

外出の時はフックから外して、ペンダントを身に着けて外出すれば、シャブリリパワーで身を守られて、帰宅後はペンダントを元のフックに戻せば、今度は相乗効果で家を強力に守られるのと同時に、シャブリリの魔除けや守護の効果が充電されるのでとても便利です。

菖蒲と蓬の束はこの時期なら、スーパーやお花屋さんで簡単に手に入ると思いますので、みなさんも是非やってみてくださいね。



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20歳で月刊少女誌『マイ バースデイ』(実業之日本社)におまじないや占いなどの連載を開始。『いにしえからの贈り物 お守り・厄除け・おまじない』(説話社)をはじめ著作多数。『毎日新聞』の占い欄ほか、ウェブサイト、携帯サイトの監修も多数。明治時代の実業家・易断家の高島嘉右衛門(たかしまかえもん)の玄孫(やしゃご)にあたる。日本占術協会専務理事、日本占術協会認定占術士。
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